昭和43年10月18日 朝の御理解
御理解第57節「金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる。神を 杖につけば楽じゃ」
この御理解の( ? )神を杖につけば楽じゃと仰るのですから、(?)私共が楽でない時、心の中にいわば、楽、いうならありがたいと、心にゆとりがあるとか、安心があるとか、ねそういうときにはね、おかげを受けておるときですけれども、心に心配があったり、苦しかったり、悩みがあったり、ね、と言う事はもう本当は神を杖についていない証拠です。 ね。神様の絶対愛を持って、私共の上にお働きくださるのだと、絶対の働きを持って、お取次を頂いてお願いさせてもらえば、そこに、お取次の働きが必ずあるだろう。しかもそれは、私共がいわゆる、楽になるためにいうならば、いよいよおかげを頂くための働きがあっておるんだと信じるということ。ね。そこに神を信じると言うこと。そこで、神を杖につくと言う事。ね。ですから、神を杖につけば楽じゃとおっしゃる。楽でないならばまだ神様を私はそれほど信じていないのだ、神様一本におすがりをしていないのだと、悟らなければいけません。いわばここんところを一番大事なんです。いかにも神様をお道の信心を何十年させて頂いておるというてもですよ、ね、神を杖についていない人がどのくらいあるか分からんのです。ね。只、必要なときだけ神様。いかにも杖についておるごたるけれども、その杖がどこにあるやら分からない。その証拠に楽じゃない。神様というてから楽じゃない。楽になれない。だから神を杖につくと言うことはいつも、いつも神様を杖についておかなければいかん。しかもその神様がその私共の上に絶対の愛を持って私共のいわゆる、ご守護を下さり、またはおかげの道はそこから、作ってくださる事を、開いて下さる事を信じておらなければこれはできないと言う事なんです。
そこで、金の杖をつくな、木や竹を杖についたっちゃつまらんぞと。いかにも金は杖そうだけれども、ね、本当に、と言う事になってくると曲がってしまうような事になるぞと、竹や木をついておればよかろうごたるけれども、折れたらどうするかと。というように、ここんところは感じますよね。金や木や竹やらは。このように私は思うのですけれどもね、だんだん信心させてもろうておかげを頂いてまいりました。神様の有りがたさも分かってくる。段段、おかげを頂いて繁盛のおかげを頂いてお金もできてくるようになる。知恵もできて名誉も頂ける。ね。ここに、一つの人間としての力と信用といったようなものも着いてくる。その頃からです、神を杖につけば楽じゃというその神を杖につかずに金やら物やらにいわば腰掛ける。つかんでから、いわゆるつかんでない。金をね、頂きますとね金を杖のつくようなもの。実をいうたらおかしな話である。ね。段々おかげを頂いていくと言う事。実におかしな話で有ると言う事。おかげを頂いていけば行くほどに神を杖につくのでなからなければならんのに、段々おかげを頂いて金ができてきたり、ね、地位が出来てきたりすると知恵に縋る。知恵を杖につく。自分の知恵に物を言わせようとする。自分の地位や知恵にですね。いわゆる、権力に物を言わせようとする。お金が出来てくるとお金に物を言わせようとする。実におかしな事でございます。信心が育つ、またお育てを頂くといったようなことを申しますが、信心が育つということはどういうような事だろうか。今朝、私お知らせを頂いたのに、もう70位のおばあさんがね、二十歳くらいの娘さんが着るような大きな花模様の柄の着物を着て、白粉を塗っておられる。けれども、もう白粉を塗っておられておる、かえっておかしな感じ。それに、五十年もずれたようないわば柄の着物。ね。二十歳時代のものが着るようなものを着ておる。
年はもう70じゃろうとこう思われる。きれいにお化粧してあるけれども、いわばしわがめだつ。どうでしょうかね、皆さん。おかしいでしょうがね。いわゆる、人間としての年だけはとっていきよるわけです。ね。年でも70になると、ところがそのこちらのほうは全然、育っておる。まだ、二十歳時代の着物、(?)着物を着ておる。それこそ、(?)ごたる感じです。ね。ここへんでは年よりはあんまり若つくりをしますと、あのいいますのは、(?)そげなことしよりますと犬がほえますよちいうがっと言うでしょ。
ね。信心が育つと言う事はね私が20年の信心をさせてもろうとりゃ、20年丁度、20から40になったらもう、40にふさわしい柄の着物をきらなければいけないのですよ。ね。70になったら70にちょうどよい柄のものをきらなければならないのですよ。ね。いうなら、信心はもう50年、もしておるけれども信心のほうは一つも育っていないから、まだ、20ぐらいの着物を着ておるようなものですから、いわゆるおかしな事ですというのである。そんな人がどのくらいあるか分かりませんよ。お道の信心を頂いておって。ね。もう何十年も信心をしておるけれども、いわゆる、信心のほうは一つも育っていない。信心の年数は50にも70にもなりよるけれどもね。
着物の柄のほうはいっちょん進んでいきよらん。いわゆる信心の(?)は一つも変わっていきよらんという事。これじゃあおかしな事ですよねと言う事になるのです。段々信心をさせて頂いておかげを頂いてきて、お金が段々、お金も出来てくるようになり、ね、地位も出来てくる。ね。ところがです、段々おかげを頂いてきて神様の有りがたさを分かってきておるのだから、いよいよ神様一心神様一本に縋らなければならないのにも関わらずです、ね、神を杖につこうとせずに金が出来てくると金を杖につき、自分の権力やら、地位やら名誉やらが出来ますともうその、地位やら名誉やらに物を言わせようとする。
ね。私がといったようなことになるのです。ね。これではね、せっかく信心をさせて頂いても信心が育っていない証拠だからおかしな事になる。信心が育っていないからおかしい。70の婆さんが20の着物を着ているようにおかしい。ね。必ずその金にものを言わせるというて金に杖をつけばその金は必ず行き詰まる、必ず曲がる。木や竹というものは、自分の気、気が強いというでしょうが。ね。例えばその地位やら名誉やらというようなそういう力でね、そういう自分のその地位に物を言わせるというような事ではなくて神様のおかげを頂かなければならんのに、ね、自分のいわば一つの見識を持っておる。だれだれさんになら、させるとこうする。ならそればハイハイと引き受けてくれるから出来るかもしれませんけれども、もし頼んだ人がやっておらなかったら、そこに木や竹は折れることになる。それだけでは杖にならん。ね。私はいつもこの御理解の場合に申します。金やら物やらじゃいかんばいち。(?)ここにある間はよい。金ばっかりたまっていく。これだけの金があるけんと思うてから例えばそれにこうやって(?)を使うようにちょっとそれによりかかって、それになんかかる。金のほうが向こうへすっと引いたら自分がひっくりかえらなんじゃないかと。人やら物やらに頼る。あの人に頼んでおるけんでと思うてから頼んでおる。その人がちょっとすかされると自分の方がよろよろせんならん。ね。人や物じゃ頼りにならん。というて人やら物やらがいうならばそのまま地位やら名誉やらでもいらんもんじゃない。段々信心しておかげを頂かなければならんけれども、ね、それに頼ったり縋ったりそれに物を言わせたりするような事であってはならないと言う事。
ね。ですから例えばここでですよ、親先生親先生というてその、ここに、私がここにきてくださった時にこうしたらいいでしょうが。ね。それはそれ例えばここでいつも例に申しますように総代なら総代が私の手足になってくれるから、さあ、総代さんお願いしますよち、総代さんお願いしますよち、いってそのはい承知しましたと言うてくれればよいでしょう。ね。例えば今日はなんですか、○少、少年少女会育成の何かの各教会から三名ずつどこどこの教会に集まらなければならないようになっておる。今日あのあちらに何時からいかなならんけん総代さんあなた行って下さい、はい行きましょうと言う事になりますよね。こちらはもう行ってくださっておるものと思うておるでしょう。ところが行ってなかった。丁度、これに頼ったからね、すかしをくらったようなものですよ。ね。頼るという事、大体いうたらです、その当てにならないものです。
その人もなら悪気はなかろうばってん(?)用事が出来たとか、病気をしたとか言うたらもうできんでしょうが。それよりも私だけがおかげを頂きますと例えば言う人がここに来た時になら御願いしますよというてこうしたら絶対間違いない。だから私がその、人やら物やら粗末、あの、いらんというのじゃないです。金もいりゃ、全ての人もいるけれども、ね、私がおかげを頂きますと言う人にこうしたらいいというだけ。これを私共それに縋る、それに頼っていこうとするからちょっとすかしを食うと自分が(?)なりゃん。はああんやつばっかりは当てにならんやつじゃあるといったように人にまで不足に言わなければならんと言う事。
ね。お金もでもそうなんですよ。そのお金を当てにしておったけれどもその金は使えなくなるもんじゃからね、金の杖をつけば曲がる木や竹は折れるという。そういう意味なんです。そこでおかげを頂けば、頂いていくほど信心が育っていけば育っていくほど、自分が神様一心に縋っておるというしるしがどういう風に現れてくるか。いわゆる一切が神様の御物でいう事が分かってくる。金も物も一切神様の働きによるもの、神様のおかげによるもの。ね。(?)金がたまったからというて私が自由に使えるものではない。私のものではない。ね。いわゆる金に物を言わせると言ったことがない。私はこの辺をしっかり分からなければならないと思うのです。信心がいわゆる育っていくと言うことはそこが分かっていかなければ本当のお育てならん。
ね。70になってから20の娘が着るようなものを着るようなおかしな事になってくるのです。御大祭の日でした。もう皆さん直会も済んでから、帰られるから先生方をここで正面で皆お送り致しますよね。最後にあの甘木の平田さんが樋口さんと帰られる。(?)ところから電話をかけられて、まあ、立派な大きな自家用車が迎えに参りました。そこでその、もうくるだろうと表で待っておる時にです、秋永先生が平田さんにこういう、以前もそれを話しておりましたけれども、あちらのうちに行った時にまあ、これは余談ですけれども平田さんがこういう事を言うておられますよ。秋永先生に「ここまでは大概のものはおかげを頂く」ち。例え合楽の教会、この程度のところまでなら。(?)「これから先が秋永さん大事ばい」ちいうて。これから先が。ね。「これから先本当にお役に立ち、御用にたっていくようなおかげをいただかなかんばい、ここまでならいうならば誰でん頂くばい」というような意味のことを言うておられる。これも余談ですけれども、私はなるほどおかげを頂く人は一つの筋金が通っておると思うのですけれども、わざわざ、大きな自家用車が迎えにきましたけれどもね、絶対この、いわゆる、教内ではない(?)そして自分で言うておられました。ね。「こういうの場合は教会じゃろうが教会の前に横付けするような場合もあるけれども、自分の私用の時には絶対境内で車に乗るようなことはしませんち言う」て。これはいわば甘木の初代の信心を生き生きとして受け継いでおられると言う感じですね。甘木がやっぱそうだったです。それはね、頂き方なんですから、あの、ですけれどもやはりそういう一つの筋金が通ったというかね、甘木の初代が満州視察をされた事があるのですね。満州といや、まあそれこそ、極寒の地ですからそれこそ日本のマントやら(?)着とったんじゃどうこうこうこん寒しうてこたえんです。
それなのにですね、教会に止まられるときに教会のずっとこう、まあ、門の前まで行かれると必ずオーバーを脱がれたそうです。ね。
それはもう本当に逃げるくらいに寒いち。必ず境内に入られたらオーバーを脱がれたと言う事です。ね。もう(?)オーバーどん着とったんじゃ手袋どんはめとったんじゃあいすまんというのが初代の先生のいわゆるお考えだったのでしょう。そういうような信心がいわゆる甘木さんが、甘木さんじゃない平田さんが、しっかり受け継いでおられると言う感じですね。境内で車に乗るような事じゃあいすまんというのである。送っていく道々にね、そういう事を話しておられますです。そん時に秋永先生がね、皆さんにこういう事を言っておるのですよ。あちらの敷地が6千坪だそうです。そこにはもう大きなもう(?)から持ってきたのでしょう。まあ、ヒノキとか杉とかもう大きな木が移植してあるというか沢山植えてあるそうです。
だからあれを一本もろうちこうち言うてからいつか言いよりました。そのことをその、秋永さんが言っておるのですよね。平田さんに。「あの木ば一本どうでんこうでん記念にここに境内に一つ献納してください」ち。したら、平田さんがこういう事を言われました。やるともやらんとも言いなさらんかったです。あれが普通で言うならばはあよかとこじゃないとりきなさいというところでしょうね。ところが平田さんがその木一本一本を(平田様のところに?)絶対思うてないなあと私は思いましたよ。やらんばいとも言いなさらんかったです。やるともいわっしゃらん。どういう事を言うかというと「秋永さん徳に勝負しよ」といわっしゃった。「あんたが徳があるならば、私んちの木ばあんたげん移しても構わん」まあそういう意味でしょうね。やるともやらんとも言われん。秋永さんお徳で勝負しようと言われる。もう本当にそのその木一本でもです、ね、なるほど大変大きな木をよそから持ってきてそれはいうなら平田さんのお徳によって集まっておるもの。
それを例えば私のあんたが言うたげんくらいな事で私はあんたげんにおとすわけにはいかんよ、私があげられにゃいかんよ。けれども、あんたが徳を持って私げんとをもろうてくれるなら、一本ことはいるもんかい、二本でん三本でんあげてもいいですよといったようなことにも感じたです。ね。「秋永さん徳で勝負しよう」とこういわれるわけなんです。ここで直会を頂きます時に私がお相伴に出たらです、平田さんと樋口さんとこう並んでから、大坪先生、えー、こちらの息子が二番目の息子が二十七になります。ここに、信者に、よか娘さんがおらんじゃろうかち。そいうわけでいっちょよかその、嫁がおるごたるならいっちょ御願いしますばいち言うてからその、いいよなさったです。私も聞いておりました。それは、おりますがちまあ言いよった。ところが今言うようにそこから、その、入り口まで、自動車が入り口まで参りましたから、そこまで皆私いっしょに送っていきよる間にです、今度は「先生、これは家の長男でございます。」迎えにきておった。「これの次のつがいわゆる27になります」。やっぱ、樋口さんと同じような事をいわれる。やっぱ探しよりなさっとでしょう。「あなた方信者の中に(?)しっかり信心が出来たつがいっちょ娘におらんじゃろうか」ち言うてから言いなさますとです。そして私申しました。もう背中をたたいてから、「平田さん徳で勝負しなさい」とこう言う(笑)やはーんと頭を抱えて自動車に乗られました。そうでしょうが。自分方の娘がおるけんち言うてから息子がおるけんち言うてから、誰でん彼でん頼んで回らんごとでどうするですか。それこそ、木や竹は折れるのです。私達はなら、( ? )頼んだ人がなかです。ならもうそれがそげんじゃけん家の嫁ごばどうでんこうでん探して下さいち言うて頼んだ(?)。( ? )おかげをいただかなんところじゃないけれども、それこそ徳で勝負しようと思うております。ね。私はもう金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。と言うことはそう言う事だと思うのです。ね。(?)本当に自分の物ではない、自分の金ではない。だから徳で勝負しようといわれた。ね。けれどもそのさすがの平田さんでもやっぱり、自分げん息子の事になると何処に頼むここに頼むやっぱしよござるじゃろう、と期せずして樋口さんからも聞きゃ、ご本人からも聞いたですから。ね。それで、平田さん徳で勝負しなさいと私が言うわけです。ね。だから、この事だけは人に頼んだっちゃよかというような事はないです。だから信心が出来てくればくるほどにです、それこそ徳で勝負させてもらうのであってです、金やら物やら人やらに縋り頼りにするようなことが合っちゃならんと言う事です。
ね。でないとね、金を沢山持って、金に腰掛けておっても出来ます。金に縋ってもですそれで十分のことはやっぱ出来ますけれどもです、ね、それでは必ず自然が破れるです。自然の働きが破れるときがくるです。あの人に頼んでからこうしたということであったらですよ、けれども私は先ほど申します、頼んじゃならんというのではないですよ。ここにきてからならいいですよ。」ただいまここにこういう風な娘さんがおるが、お宅の息子さんはどうじゃろうか」「ほんならよろしく御願いしときますばい」これでよいでしょうが。ね。だから頼んじゃならんのじゃないですよ。けれども、こちらからこうこう行ってはならんということなのです。ね。ところが信心が段々できておかげを頂いて地位ができたり金ができたりするともうその地位に腰掛ける。その金に縋る。ね。それではねそこから繁盛ではなくて、そこから折れたり曲がったりするような元をそこから作っていく。ね。そして、結果においてはそれから先は信心が育たんから、70婆さんが二十歳のもんの着るごたる着物きておるごたる、自分も平気でおっても脇から見たらおかしなもんじゃと言う事になるのです。まあ色々な角度からも沢山大変頂きますよね。この54節は。ね。ですけれども今日はただいま申しますようなところに焦点を置いてから皆さんに聞いて頂いたのですね。金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃと。ね。楽じゃと。ね。いわゆる信心に物を言わせる。徳に物を言わせる。徳で勝負する。というような根性がですね、いつの場合でもいよいよ育っていかなければならない。そこに楽じゃという心、ね、縋っておっても、たよっておるというようなことではないところのおかげ。 ね。そういう、おかげを頂いていけれるということが信心が育つということじゃないかと思うのですね。
どうぞ